ブルース・リーの生涯 香港〜少年時代

偉大な武道家にして映画俳優・ブルース・リー。
彼の波乱に満ちた生涯を辿ってみましょう。

※文中、武道に関連した/JKDに関連すること/興味深 い事象などに関して色分けして示しました。
また関連する写真がある項目に関しては下線を付けて示しました
。※一部敬称略

●1940年
11月27日 サンフランシスコのチャイナタ ウンにある、チャイニーズ・ホスピタル(東華醫院)にて誕生。父は粤劇(広東オペラ)の名優・李海泉(リー・ホイチュアン)。母は、ドイツ人との混血である 何愛楡(ホーオイユ)。2人の次男である。
 兄弟には、姉フィービー(李秋圓)、アグネス(李秋鳳)、兄・ピーター(李忠琛)がいた。弟・ロバート(李振輝)は、8才下である。
 英語名Bruceは、病院の看護婦がつけたという。「Bruce Lee」も歴とした本名である。
★中国名・李振藩(リー・ジュンファン)。

●1941年
 生後約3カ月で、映画『金門女』に女の赤ん坊役で出演。役名は「小李海泉」。
 3月、一家で香港に戻り、九龍に住む。

●1946年
 『富貴浮雲』に出演。

●1947年
 香港ラサールスクール初等部へ入学。
 ☆父の手ほどきで太極拳を学ぶが、長続きせず。

●1949年
 映画夢裡西施夢裏西施)など3本の映画に出演。

●1950年
細路祥に出演。この映画の原作者の発案により、次作より芸名を李小龍(リー・シウロン)として、59年までに18本の映画 に出演していく(細路祥』での芸名は「李龍」)


青年時代のブルース・リー

詠春拳の中興の祖であり達人と称せられる
葉問(イップ・マン)師と李振藩。

●1950年
 『細路祥』に出演、父との共演となった。
☆この作品出演をきっかけに、芸名・李小龍と名付けられる。

●1951年
 『人之初』に出演。

●1952年
 ラサールカレッジ(溂沙書院)入学。
 ケンカに明け暮れる日々が続くことに。

●1953年
 『苦海明燈』『慈母涙』『父之過』『千萬人家』
 『危樓春暁』出演。
☆ケンカに勝つため、詠春拳道場の門を叩く。
 師は、達人イップ・マン(葉問)氏。素行は治らなかったが、後に「生涯で師と呼べるのはイップ・マン先生の み」と言わせた人物である。

●1955年
 『愛』『孤星血涙』『守得雲開見月明』『孤兒行』
 『兒女債』出演。

●1956年
 ラサールカレッジ退学。聖フランシス・ザヴィエ ル高校へ転校。
 『詐癲納福』『早知當初我唔嫁』出演。
 詠春拳、ケンカ、女、ダンス三昧の日々。

●1957年
 『雷雨』に出演。

●1958年
 学生ボクシング大会に出場し、3年連続チャンピオンの他校イギリス人を詠春拳戦法で1ラウンドKO。

 10月、香港チャチャコンテストで優勝。
☆高校ボクシング大会に出場、3年連続チャンピオンのイギリス人を詠春拳スタイルで撃破。

●1959年
 香港初のカラー映画『人海孤鴻』出演。
 (1995年の「香港映画100年祭」で、“もっとも忘れがたい映画10本”の一つに選出された名作。他の出演作では『精武門』(『ドラゴン怒りの鉄拳』) も選ばれ、ブルース・リー出演作は、香港映画史上、重要な位置を占める作品として今なお高い支持を受けている。
2月 ☆邵漢生から「節拳」「功力拳」などの型を 学ぶ。“チャチャ”との交換教授。
4月 詠春派のライバル・蔡李仏派の挑戦を受け、相手に大怪我を負わせたため、警察沙汰となる。
 同月末、単身渡米。アメリカ生まれだったため、18才の時点で在米であれば、アメリカ国籍が取得できるという理由もあった。
★アメリカへ渡る途上、航路の関係で入港した横浜 に上陸。日記によると、〈日本は素晴らしい国である。レストランの“チキンライス”が美味だった〉と書かれている。

そして、大志を抱いた少年は、海を渡った。