●1971年
2月 自身が原案・出演の『サイレントフルート』ロケハンのため、ジェームズ・コバーン、スターリング・シリファントとともにインドへ。 6月 香港の新興映画会社ゴールデン・ハーベスト社と2本の映画出演契約を交わす。
6・7月 『ロングストリート』第一話出演。ブルース・リー師祖本人を思わせる役柄で、アメリカでも再び注目を集める(脚本は弟子であるスターリング・シリファント)。その後、3エピソードにゲスト出演するが、別の脚本家が書いたシナリオではリー・チョン(役名)の人物設定が異なり、第一話の水準には及ばなかった。ただし、彼のアクション・シーンが観られるのは、ファンにとっては有難い。
7月12日 『ドラゴン危機一発(唐山大兄/The Big Boss)』撮影のため、タイ・ベイチュンに出発。 10月 『ドラゴン危機一発』公開。空前の大ヒット。 11月 九龍ウォータールーロードの明徳園マンションへ家族で引っ越し。アメリカから家族を呼び寄せ、いったん香港を活動拠点とすることに。
・10月から11月にかけ、第2作『ドラゴン怒りの鉄拳(精武門/Fist of Fury)』撮影。 12月9日 カナダのトーク番組「ピエール・バートン・ショー」出演。(ビデオ&DVD「The Lost Interview」)
●1972年
3月 『ドラゴン怒りの鉄拳』公開。前作を上回る大ヒット。興行記録を更新。
★前2作の監督ロー・ウェイと意見が合わず、『冷面虎/The
man called Tiger』出演を固辞。ゴールデン・ハーベストとの共同出資で、コンコルド・プロダクション設立。
自ら新作のアイディアを整理。第3作は製作・監督・脚本・武術指導・主演の『ドラゴンへの道』。(猛龍過江/Enter the
Dragon<企画段階>後にThe Way of the Dragonに変更。『Enter the Dragon』のタイトルを気に入っていたブルース・リー師祖は、その題名を“より重要な作品のために”温存、翌年それは最高の舞台で実現する)
5月 『ドラゴンへの道』のローマ・ロケ。キャメラ・マンの西本正、ノラ・ミャオ、チャック・ノリス、レイモンド・チョウなどの少人数で約2週間の撮影を行う。
・九龍塘の大邸宅”栖鶴小築”に引越。莫大な費用をかけ、内装や庭を改造。
・『ドラゴンへの道』のセットを使い、時代劇『細鳳』のスチール撮影。
9月 ☆『死亡遊戯(Game of
Death)』アクションシーンを撮影開始。撮影時のカチンコは、「試鏡(テスト)」〜「黄面虎」〜「死亡的遊戯」となっている。
12月 『ドラゴンへの道』公開。さらに記録を塗り変える大ヒット。
・『燃えよドラゴン(龍争虎闘/Enter the Dragon)』の契約を結ぶ。英語タイトルは、企画段階では「Blood and Steel」、その後「Han's Island」になったが、クランク・アップ後、ブルース・リー師祖の主張で最終的に『Enter the Dragon』と決定した。
・この年、イップ・マン師、盟友ジェームズ・リー他界
|