ジークンドーの歴史

●JKD、その誕生の瞬間

 ブルース・リー師祖が本格的に道場を作り、武術の指導を始めたのは1961年のことですが、その時期から「JKD(Jeet Kune Do)」の名前があったわけではありません。「JKD(Jeet Kune Do)」の名称が生まれたのはその5年後、1966年・3月です。(*名称の構想は、1965年)

 ある日、ブルース師祖とダン・イノサント師父は、車の中でいつものように武術やスポーツ談義に花を咲かせていました。フェンシングの “Stop-Hit”に話が及んだ時、ブルース師祖がこう語りました。
 『我々がやっている方法は、“Stop-Hitting Fist Style”もしくは“Intercepting Fist Style”と呼ぶべきだ』
 『それを中国語で言うと?』
 イノサント師父の問いに、師祖が答えます。
 『そうだな…Jeet Kune Do(截拳道/ジークンドー)とでもなるだろうか…』
 この時、初めて「Jeet Kune Do(截拳道/ジークンドー)」の名が誕生しました。 “Stop-Hit”とは、機先を制し自分の攻撃のみをヒットさせる、攻防一体の高度な技術のことです。常に最も有効な攻撃方法は何か?を考えていたブ ルース師祖たちにとって、それは彼らが追求するものに一番近かったのです。相手の攻撃を受けたり避けたりした後、反撃に移るのではなく、あらかじめ相手の 動きを察知し、カウンターをヒットさせれば、効果はより大きいはずです。

 さらに後日、イノサント師父に、『このJKDは素晴らしい!』と言われ、『ヘイ!そのJKD(ジェーケーディー)という呼び方、気に 入った!』と師祖が喜び、私的な会話でも『この料理はJKDだぜ!』『昨日観た映画はJKDだったよ!』などと、使われたりしました。つまり、JKD= “何か優れたもの”を指す代名詞であり、ブルース師祖自身、自分の格闘技術のみを示すつもりはなかったはずです。しかし、「JKD」&「Jeet Kune Do」の名称は広まっていきました。1967年には「ブラックベルト」誌に紹介され、マスコミ初登場となります。次第にブルース・リー師祖は、 「“JKD”は武術の一流派や一つの形式ではない」ことを強調しました。
 『JKDとはただの名前です。決して大騒ぎしてはいけません』とも言っています。

 さて、現在ではブルース・リー師祖の提唱したフィロソフィー(哲学)として知られるJKDですが、彼がそこへたどりつくまでの道のり を辿ってみましょう。実に数多くの武術や武術家と接して学び、時には対決し、時には交流し技術を研究し合った、ブルース・リー師祖。その武道家としての人 生を追っていけば、JKDの真実が明らかとなることでしょう。



●不良少年と詠春拳(〜1959)

 ブルース・リー師祖が、最初に経験した武術は、父・李海泉から手ほどきを受けた太極拳ですが、これは現在も一部に伝わっている格闘武 術としての太極拳ではなく、健康体操に近いものだったというのが定説です。つまり、香港の公園などで早朝にやっている人に見られるような、ゆったりした動 きのものだったのだろう、ということです。(ただし、謎はあります。父の李海泉は胡家太極拳を研究していましたが、ブルース師祖が楊家太極拳の動きを撮影 した写真も多数残されているからです。90年代に香港のTV局が、デビッド・ウー主演で“ブルース・リー物語”『龍在江湖』というドラマを製作した際、武 道家としても有名な劉家良が李海泉に扮し、武術にも秀でた父親として描かれていましたが、これは単なる脚色だと思われます)

 1953年、勉強嫌いでケンカに明け暮れていた13歳の少年・李 振藩(ブルース・リー師祖)は、ある日、簡単に勝てると思った相手に負けてしまいます。そして、その相手が功夫を習っていたことがわかると、自分も正式に 武術の門を叩くことを決心します。その時、入門したのが、後年『自分が師と呼ぶのは彼だけ』という達人/イップ・マン師の詠春拳道場でした。
 渡米するまでの5年間でしたが、練習熱心なブルース師祖は、驚異的なスピードで詠春拳のエッセンスを吸収していきました。素行の悪さは直らなかったもの の、1958年の高校ボクシング大会では、3年連続チャンピオンのイギリス人を詠春拳テクニックだけで1RKOしてしまうほどでした。

 詠春拳は、基本的に重心を後ろ足に多くおき、直線的な手技や低い蹴り技を多用する武術で,大きく振り回す手技や回し蹴りなどは用いま せん。相手の両手を封じてしまう技術や、攻撃をかわしカウンターパンチを入れるなどのテクニックには優れています。また、ひたすら短い間合いでの直突き攻 撃は、後の「エコノミーライン」というJKDの発想の元となるのですが、ケンカ=実戦では、ブルース師祖は試行錯誤したであろうと想像されます。同時期、 彼が西洋式ボクシングを練習した話や他の武術を学んだ記録が残されているからです。 ともあれ、イップ・マン師の説く「武術を学ぶ上での精神性」には耳を 傾けなかったブルース・リー師祖ですが、その実戦性への懐疑、探求心は本能的に目覚めていたようです。
 また、渡米する2カ月前には、あの黄飛鴻の孫弟子にあたり、広州精武体育会出身の達人・邵漢生から足技に富んだ「節拳」「功力拳」等の型を学びました。 短期間ではありましたが、後に演じた「ドラゴン怒りの鉄拳」の主人公同様、ブルース・リー師祖も事実上“精武門武術”の弟子でもあったわけです。ちなみに 邵漢生は、武術の大先輩であると同時に、映画俳優としても大ベテランの先達でもありました。



●単身渡米〜真の武道家へ(1959〜1963)

 正確な年代は不明ですが、1964年頃までに、ブルース・リー師祖が学んだらしい功夫の記録があります。 洪家拳、擒拿、蟷蝋拳、南派蟷蝋拳、虎爪功夫、白鶴拳などです。(1965年のオーディション・フィルムの華麗な型を見れば、彼が多種のスタイルに接した ことは明白です。その天才性ゆえ、学んだ時期や期間がわからないのは皮肉なことですが)

 1959年、ケンカで警察沙汰を起こしたブルース・リー師祖は、アメリカへ渡ります。そこで通い始めたエジソン・テクニカル・イン スティチュートで、クラスメートに頼まれ、早くも武術教師になります。もっとも、道場もなく無償でしたが。その頃、彼が教えていた内容は、ほとんど詠春拳 そのままでした。柔道や空手が流行していた当時のアメリカで、「功夫の素晴らしさを広めたい」という夢を持ち始めたブルース師祖ですが、お金基盤もない当 時は、まさしく「夢」でしかないことでした。
 しかし、この年に出会った、自分よりずっと年上(16才年長)の弟子であり友人が、後に彼に重要なアドバイスをすることになります。現在も、少人数に無 償で当時の教えを伝えている、ターキー木村(本名・木村武之)師父です。

 1961年、ワシントン大学に入学したブルース・リー師祖は哲学を専攻、高校へ赴き教鞭をとるほど勤勉な学生になっていましたが、 一方、ターキー木村師父の勧めで正式な道場を開きました。その名も「振藩國術館」(ジュンファン・グンフー・インスティチュート)。月謝を取り、本格的な 職業としての武術教師です。その頃には老子やインドのクリシュナムニティの思想も深く追究し、武術における精神的バックボーンも形成されつつありました。
「振藩國術館」で教えるブルース師祖の武術は、詠春拳を母体としながら、伝統は尊重するものの“実戦性”を重視するものに改良されていました。それは、 “振藩功夫”と呼称され、伝統詠春拳には無い裏拳など、有効な技は独自の研究を経て、取り入れられていった“ブルース・リー功夫”なのです。
 また、1962年、アメリカで高名な柔道家・柔術家のウォーリー・ジェイと知遇を得、その技術も積極的に研究していました。



●“伝統”への挑戦・新たな課題(1964)

 1964年、道場経営に専念するため大学を中退し、オークランドへ転居したブルースは、シアトルの道場をターキー木村師父に任せ、 第2の「振藩國術館」を開設します。そのパートナーは、1962年から弟子であったジェームズ・リー。ターキー木村師父に次ぐ高弟となる彼は、拳法、柔 道、アマチュアボクシングの経験もあり、1938年にはウエイトリフティングのノースカリフォルニア記録を作った豪の者です。

 また、この年はブルース師祖の人生に大きな影響を与える出来事が集中した、ターニングポイントともなりました。結婚、“もう一つの 夢”ハリウッド俳優への契機となる「インターナショナル・カラテ・チャンピオン・シップス」(ロングビーチにて)での演武、その主催者・エド・パーカーと の出会い。“アメリカ・テコンドーの父”と言われ、一時期ブルースも道場経営の手本にしようとしたジューン・リーとの交流もこの頃からでした。 しかし、 最も重要なのは、次の二つでしょう。

◇ダン・イノサント師父との邂逅…エド・パーカーのケンポーカラテの高弟でもあったイノサント師父ですが、彼もまた、流派やスタイル に拘泥せず、様々な武術を修行する柔軟な発想と行動力の持ち主でした。ロング・ビーチの大会でゲストであるブルース師祖の世話をした彼は、たちまち意気投 合、ターキー木村、ジェームズ・リー同様、かけがえのないパートナーとなります。また、後にブルース・リー映画で世界中で流行したヌンチャクもイノサント 師父が伝授したフィリピン武術の武器術の一つです。

◇チャイナタウンの“伝統功夫”の挑戦を受けて立つ…1964年末、今では伝説となった「対決」があります。生徒の国籍・人種にかか わらず功夫を教えていたブルースに、チャイナタウンの“伝統を守り続ける中国人”から挑戦状がつきつけられました。曰く、〈功夫は中国の秘伝である。我々 の代表のウォン・ジャックマンと闘い、負けたら道場を閉鎖するか、異国人に教えることをやめるべし〉…。映画『ドラゴン・ブルース・リー物語』では、劇的 な2度の勝負として描かれていますが、事実は極めてシンプルです。場所は「振藩國術館オークランド」。 結果は、約30秒強でブルース・リー師祖の圧勝でした。しかし、勝ちはしたものの、ブルース師祖の内面に大きな課題が生じます。自身の予想では、もっと短 時間で倒せるはずが、思惑と異なり、体力も消耗してしまったからです。 (ブルース師祖の圧倒的な猛攻にひるんだウォンは、背を向けて逃げ回り、それを追いかけ、引きずり倒さねばならなかったのです。それは、彼が考えていた “効率的な戦法”とは全くかけ離れたものでした。)

 それからブルース・リー師祖は、その「勝利の過程」を反省し、さらに“振藩功夫”を洗練させるべく、研究と実践に取り組むのです。



●“振藩功夫”から“JKD”
〜無限に進化する思想(1965〜)

 ウォン・ジャックマンとの対決以降、以前に増してブルース・リー師祖は、貪欲に様々な格闘技を研究し、研鑽を続けていきます。ボク シングやフェンシングの実戦的フットワーク、ムエタイやサバットのキッキング…。現在では当たり前のように使われている、頑丈なキックミット、シールド、 オープンフィンガーグローブなどもイノサント師父と発案し、練習に組み込んでいきます。また、伝統詠春拳の木人を用いた練習法を、実戦に即したものに改良する、などな ど…。自分が必要だと感じたものは、どんどん取り入れ、逆に“重々しい伝統”であっても現実的(実戦的)でないものは、躊躇なく削り取っていく…。

 “振藩功夫”は、スタイル(形式・流派)を超えたものに進化していったのです。現在ではポピュラーになった感もある“総合格闘技” ですが、40年以上前から“何でも有りの総合的実戦武術・実戦護身術”を創り、理論だけでなく実践していたのがブルース・リー師祖なのです。そのブルース・リー師祖が当時、世に発表した自由な格闘イメージを祖とした延長線上に、現在の“総合格闘技(MMA)”の発展がある、と言っても過言ではないでしょう。

 ブルース・リー師祖の死後、彼の格闘技術=振藩功夫はスタイルとなりましたが、JKDの精神は、「思想」として継承されています。 生前直接教えを受け、そしてブルース・リー師祖と共にJKDを発展構築させ、ブルース・リー師祖本人より最高のJKD3ランクの認定を受けたその正統継承者ががダン・イノサント師父です。



◇無形の名称「JKD」

 こうして、スタイルや伝統に縛られない“総合的格闘術”を創造していったブルース・リー師祖ですが、時に困ることがありまし た。自身の格闘方法を聞かれた際、一言では説明できないからです。それは決まった形を持たず、まだまだ進化し発展していく可能性をもった、既成の◯◯流、 ◯◯派などという狭いカテゴリーにおさまらないものでした。そこで、出てきたのが冒頭のイノサント師父との会話です。

 ブルース師祖にとって名前など必要なかったのですが、「相手の攻撃をインターセプトする方法」というより、「截拳道」という 名称の方が、何にでも名前をつけ分類したがる人々にとって、便利だっただけなのです。

〜この項終わり〜
(文中敬称略)