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ブルース・リー師祖が本格的に道場を作り、武術の指導を始めたのは1961年のことですが、その時期から「JKD(Jeet Kune Do)」の名前があったわけではありません。「JKD(Jeet Kune Do)」の名称が生まれたのはその5年後、1966年・3月です。 ある日、ブルース師祖とダン・イノサント師父は、車の中でいつものように武術やスポーツ談義に花を咲かせていました。フェンシングの“Stop-Hit”に話が及んだ時、ブルース師祖がこう語りました。 さらに後日、イノサント師父に、『このJKDは素晴らしい!』と言われ、『ヘイ!そのJKD(ジェーケーディー)という呼び方、気に入った!』と師祖が喜び、私的な会話でも『この料理はJKDだぜ!』『昨日観た映画はJKDだったよ!』などと、使われたりしました。つまり、JKD=“何か優れたもの”を指す代名詞であり、ブルース師祖自身、自分の格闘技術のみを示すつもりはなかったはずです。しかし、「JKD」&「Jeet Kune Do」の名称は広まっていきました。1967年には「ブラックベルト」誌に紹介され、マスコミ初登場となります。次第にブルース・リー師祖は、「“JKD”は武術の一流派や一つの形式ではない」ことを強調しました。 さて、現在ではブルース・リー師祖の提唱したフィロソフィー(哲学)として知られるJKDですが、彼がそこへたどりつくまでの道のりを辿ってみましょう。実に数多くの武術や武術家と接して学び、時には対決し、時には交流し技術を研究し合った、ブルース・リー師祖。その武道家としての人生を追っていけば、JKDの真実が明らかとなることでしょう。 [↑Back] |
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ブルース・リー師祖が、最初に経験した武術は、父・李海泉から手ほどきを受けた太極拳ですが、これは現在も一部に伝わっている格闘武術としての太極拳ではなく、健康体操に近いものだったというのが定説です。つまり、香港の公園などで早朝にやっている人に見られるような、ゆったりした動きのものだったのだろう、ということです。(ただし、謎はあります。父の李海泉は胡家太極拳を研究していましたが、ブルース師祖が楊家太極拳の動きを撮影した写真も多数残されているからです。90年代に香港のTV局が、デビッド・ウー主演で“ブルース・リー物語”『龍在江湖』というドラマを製作した際、武道家としても有名な劉家良が李海泉に扮し、武術にも秀でた父親として描かれていましたが、これは単なる脚色だと思われます) 1953年、勉強嫌いでケンカに明け暮れていた13歳の少年・李 振藩(ブルース・リー師祖)は、ある日、簡単に勝てると思った相手に負けてしまいます。そして、その相手が功夫を習っていたことがわかると、自分も正式に武術の門を叩くことを決心します。その時、入門したのが、後年『自分が師と呼ぶのは彼だけ』という達人/イップ・マン師の詠春拳道場でした。 詠春拳は、基本的に重心を後ろ足に多くおき、直線的な手技や低い蹴り技を多用する武術で,大きく振り回す手技や回し蹴りなどは用いません。相手の両手を封じてしまう技術や、攻撃をかわしカウンターパンチを入れるなどのテクニックには優れています。また、ひたすら短い間合いでの直突き攻撃は、後の「エコノミーライン」というJKDの発想の元となるのですが、ケンカ=実戦では、ブルース師祖は試行錯誤したであろうと想像されます。同時期、彼が西洋式ボクシングを練習した話や他の武術を学んだ記録が残されているからです。 ともあれ、イップ・マン師の説く「武術を学ぶ上での精神性」には耳を傾けなかったブルース・リー師祖ですが、その実戦性への懐疑、探求心は本能的に目覚めていたようです。 [↑Back] |
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●単身渡米〜真の武道家へ(1959〜1963) 正確な年代は不明ですが、1964年頃までに、ブルース・リー師祖が学んだらしい功夫の記録があります。 洪家拳、擒拿、蟷蝋拳、南派蟷蝋拳、虎爪功夫、白鶴拳などです。(1965年のオーディション・フィルムの華麗な型を見れば、彼が多種のスタイルに接したことは明白です。その天才性ゆえ、学んだ時期や期間がわからないのは皮肉なことですが) 1959年、ケンカで警察沙汰を起こしたブルース・リー師祖は、アメリカへ渡ります。そこで通い始めたエジソン・テクニカル・インスティチュートで、クラスメートに頼まれ、早くも武術教師になります。もっとも、道場もなく無償でしたが。その頃、彼が教えていた内容は、ほとんど詠春拳そのままでした。柔道や空手が流行していた当時のアメリカで、「功夫の素晴らしさを広めたい」という夢を持ち始めたブルース師祖ですが、お金基盤もない当時は、まさしく「夢」でしかないことでした。 1961年、ワシントン大学に入学したブルース・リー師祖は哲学を専攻、高校へ赴き教鞭をとるほど勤勉な学生になっていましたが、一方、ターキー木村師父の勧めで正式な道場を開きました。その名も「振藩國術館」(ジュンファン・グンフー・インスティチュート)。月謝を取り、本格的な職業としての武術教師です。その頃には老子やインドのクリシュナムニティの思想も深く追究し、武術における精神的バックボーンも形成されつつありました。 [↑Back] |
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1964年、道場経営に専念するため大学を中退し、オークランドへ転居したブルースは、シアトルの道場をターキー木村師父に任せ、第2の「振藩國術館」を開設します。そのパートナーは、1962年から弟子であったジェームズ・リー。ターキー木村師父に次ぐ高弟となる彼は、拳法、柔道、アマチュアボクシングの経験もあり、1938年にはウエイトリフティングのノースカリフォルニア記録を作った豪の者です。 また、この年はブルース師祖の人生に大きな影響を与える出来事が集中した、ターニングポイントともなりました。結婚、“もう一つの夢”ハリウッド俳優への契機となる「インターナショナル・カラテ・チャンピオン・シップス」(ロングビーチにて)での演武、その主催者・エド・パーカーとの出会い。“アメリカ・テコンドーの父”と言われ、一時期ブルースも道場経営の手本にしようとしたジューン・リーとの交流もこの頃からでした。 しかし、最も重要なのは、次の二つでしょう。 ◇ダン・イノサント師父との邂逅…エド・パーカーのケンポーカラテの高弟でもあったイノサント師父ですが、彼もまた、流派やスタイルに拘泥せず、様々な武術を修行する柔軟な発想と行動力の持ち主でした。ロング・ビーチの大会でゲストであるブルース師祖の世話をした彼は、たちまち意気投合、ターキー木村、ジェームズ・リー同様、かけがえのないパートナーとなります。また、後にブルース・リー映画で世界中で流行したヌンチャクもイノサント師父が伝授したフィリピン武術の武器術の一つです。 ◇チャイナタウンの“伝統功夫”の挑戦を受けて立つ…1964年末、今では伝説となった「対決」があります。生徒の国籍・人種にかかわらず功夫を教えていたブルースに、チャイナタウンの“伝統を守り続ける中国人”から挑戦状がつきつけられました。曰く、〈功夫は中国の秘伝である。我々の代表のウォン・ジャックマンと闘い、負けたら道場を閉鎖するか、異国人に教えることをやめるべし〉…。映画『ドラゴン・ブルース・リー物語』では、劇的な2度の勝負として描かれていますが、事実は極めてシンプルです。場所は「振藩國術館オークランド」。 結果は、約30秒強でブルース・リー師祖の圧勝でした。しかし、勝ちはしたものの、ブルース師祖の内面に大きな課題が生じます。自身の予想では、もっと短時間で倒せるはずが、思惑と異なり、体力も消耗してしまったからです。 (ブルース師祖の圧倒的な猛攻にひるんだウォンは、背を向けて逃げ回り、それを追いかけ、引きずり倒さねばならなかったのです。それは、彼が考えていた“効率的な戦法”とは全くかけ離れたものでした。) それからブルース・リー師祖は、その「勝利の過程」を反省し、さらに“振藩功夫”を洗練させるべく、研究と実践に取り組むのです。 [↑Back] |
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ウォン・ジャックマンとの対決以降、以前に増してブルース・リー師祖は、貪欲に様々な格闘技を研究し、研鑽を続けていきます。ボクシングやフェンシングの実戦的フットワーク、ムエタイやサバットのキッキング…。現在では当たり前のように使われている、頑丈なキックミット、シールド、オープンフィンガーグローブなども発案し、練習に組み込んでいきます。また、伝統詠春拳の木人を用いた練習法を、実戦に即したものに改良する、などなど…。自分が必要だと感じたものは、どんどん取り入れ、逆に“重々しい伝統”であっても現実的(実戦的)でないものは、躊躇なく削り取っていく…。 “振藩功夫”は、スタイル(形式・流派)を超えたものに進化していったのです。現在ではポピュラーになった感もある“総合格闘技”を30年以上前から作り上げ、理論だけでなく実践していたのがブルース・リー師祖なのです。 ブルース・リー師祖の死後、彼の格闘技術=振藩功夫はスタイルとなりましたが、JKDの精神は、「思想」として継承されています。生前直接教えを受け、そしてブルース・リー師祖と共にJKDを発展構築させ、ブルース・リー師祖本人より最高のJKD3ランクの認定を受けたその正統継承者ががダン・イノサント師父です。 [↑Back] |
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