ジークンドーの実践

JKDの実戦、そして実践

JKDは、路上の「何でも有り」実戦格闘術です。

様々な突き・蹴りをはじめとする打撃技から、倒し・投げ・絞め・関節技など、格闘技のあらゆるエッセンスを集大成した武術なのです。

JKDには試合がありません。いわゆる“禁じ手”が無いからです。いかなる状況・場面でも使い得る最も有効な攻撃方法として、目突きや頭突き、関節への打撃、金的打撃、踏み付けも技の中にあり、様々な戦術理論があります。しかし、それらが机上の空論にならぬ様に、イノサントアカデミーでは、実戦のカンを養うために目突き&金的攻撃を含む実戦練習やムエタイルール、バーリトゥードスタイルでのスパーリング、また、対複数人のスパーリング等も行われています。当然ですが、練習の際は防具をつけるなどの安全策が設けられています。戦闘の特色は「実戦は6秒以内で終わらさなければならない」というブルース・リー師祖の戦術思想にあらわされるように、短期決戦を旨とする苛烈なスタイルであるといえます。短期決戦、それは1対複数人を想定しての事でもあります。一人を制するのに時間がかかっては、複数人の相手は困難になるからです。そのため、通常の試合では“禁じ手”の攻撃を普通に活用します。

このように“実戦至上主義”のJKDですが、その精神・考え方は、格闘技のみならず、実生活でも活かすことができます。いわば、“実 践至上主義”こそがJKDの本質なのです。

心を解き放つ

武道の面でいう「心の解放」とは、自分が学んでいる流派にこだわらず、他のスタイルの長所は認め、必要ならば真摯に研究したり、自分のコップを空にして教えを乞う姿勢を保つこと、と理解できます。日常生活に置き換えて考えるとどうでしょう。人は、誰でも自分に関わる他人に対し「この人は◯◯だ」というイ メージを持ちます。「良い人」「油断できない人」「イヤなヤツ」等々…。

しかし、自分はその相手のことをどれだけ知っているのでしょうか。人間は一人一人が、それぞれ多彩な面を持っています。よほどの聖人でもない限り、誰にでも長所と短所があります。そのどちらか、自分が見聞きした部分だけで 他人を判断するのは、非常に狭量なことです。立場を変えて考えれば、自分の一面だけで「◯◯さんは△△」と決めつけられる不快さは、誰でも経験があること だと思います。 日常生活で「心を解放する」とは、先入観や偏見を捨て、素直に他者を見ることとも言えます。もちろん、どんなに誠意をもって接して も、失望させられることもあるでしょう。しかし、そうした経験も自己成長を促すステップと思えば、気分が楽になるはずです。やみくもに、周囲の全ての人を 100%信用する、ということは現実的ではありません。けれども、「自分の判断は常に正しい」と、根拠の曖昧な自信を持つことも危険です。他者の美点に気づかないということは、自分自身の人間関係も狭めてしまうことになるからです。 ◇流れる水のように ブルース・リー師祖は、武道の説明によく「水」を譬えに出します。“水のように動く(生きる)”とは、どんなものなのでしょう。もちろ ん、自分のおかれた状況、周囲の環境に流され、惰性に任せた生活を送る、などということではありません。

よほどの強運に恵まれた人でない限り、人生で辛く困難な状況に遭うことは少なくないでしょう。失敗したり、挫折を繰り返し、どん底の苦渋を味わったとしても、そこで諦めてしまい、「自分はダメだ」と思いこんでしまったら、心の成長はそこでストップしてしまいます。流れが止まり停滞した水はやがて濁っていきます。

そんな時は、自ら新しい流れを創らなければなりません。それは、武道でなくても良いのです。好奇心を捨てず、何か新しいことに興味を持ち行動を起こすことで、エネルギーが満ち始め、水は新たに流れ出します。

適応力に優れた人は、水が入れ物によって形を変えるように、どんな環境に置かれても自然にとけ込むことが容易かも知れません。 不変であることとは、変化に応じて変化してゆくことです。

やることなすこと全てが思い通りにいく時は、寧ろ自分を厳しく見つめ、その流れが間違った方向へ行かないように制御しなくてはなりま せん。人生という奔流には、どんな崖が、どういう分岐点がいつどこで待ち受けているかわからないからです。

むやみに周囲と衝突はせず、しかし、いざという時は、簡単に掴まれず傷つけられることのない強靭な心。 そんな「水」のような意志を保つことも、JKDの精神に通ずる重要な要素です。

それではJKDの実践というものがどのようになされるべきなのでしょうか?その手本は、まさにそれを創始した人『ブルース・リー』の人生の中にあります。

〜この項おわり〜

(文中敬称略)