ブルース・リーの生涯 アメリカ〜青年時代

●1959年

5月 サンフランシスコに到着

9月 ワシントン州シアトルへ移る。父の知人・ル ビー・チョウ女史のレストランで働きながら、エジソン・テクニカル・スクール(現・シアトル・セントラル・コミュニティ・カレッジ)に通学。同校で知り合い、弟子になった人物にジェシー・グロバー、エド・ハート、ジェームズ・ディマイルなどがいる。

☆ターキー木村(木村武之)氏と出会う。※「木村隆行」は誤り

●1960年

12月 エジソン・テクニカル・スクール卒業。大学入学資格を得る。

後の「振藩國術館」(ジュンファン・グンフー・インスティチュート)の母体となるものをスタートする。

●1961年

ワシントン大学入学。住まいも大学近くの アパートに移す。哲学を専攻し、ジュンファン・グンフーに哲学的要素を融合させていくと共に、生活の手段としていく。

空手家の挑戦を受け、わずか11秒で倒す。

☆「グンフー」とは、今日、英語表記「Kung Fu」がポピュラーとなり「クンフー」「カンフー」と呼ばれるようになった中国武術=功夫の広東語発音で、意味は同じ。ブルース・リー師祖は英文でも「Gung Fu」の語を用いていた。「ジュンファン・グンフー(振藩功夫)」は「ブルース・リー流中国拳法」の意。

●1962年

ターキー木村の勧めで、本格的に道場を開き、「振藩國術館」(ジュンファン・グンフー・インスティチュート)と名付ける。

オークランドの中国系アメリカ人、ジェームズ・ リーに指導を始める。ジェームズは1938年、ウエイトリフティングでノースカリフォルニア記録を作り、拳法、柔道、アマチュアレスリングの経験者でも あった。

☆有名な柔道家・柔術家、ウォーリー・ジェイ氏と出会う。

●1963年

3月。渡米後、初めて香港へ帰郷。

★8月にリンダ・ エメリーと知り合う。道場の生徒であるスーアン・ケイの友人で、師祖の弟子となった。10月25日、スペース・ニードル(有名なシアトルの展望台)で初めてデート。当時のリンダはワシントン大学医学部の学生。

☆「基本中国拳法」を自費出版。生前唯一の著書であるとされていたが、後年「TAO OF GUNG FU」という小冊子が発見された。

生徒達に教えるブルース・リー。小柄な中国人が見せる驚異的な技はアメリカ人を圧倒、瞬く間に彼らを魅了した。

ブルース・リーと彼の生徒達。

写真左下の笑顔の人物がジェームズ・リー。

●1964年

7月 翌月開催の「第1回国際カラテ選手権」でブルース・リーの案内役を務めるダン・イノサントと知り合う。

8月 カリフォルニア州オークランドへ移住。ジェー ムズ・リーの家に同居し、「振藩國術館オークランド」を開設。

「振藩國術館シアトル」は、ターキー木村に一任。

☆8月2日、ロングビーチで開催された「第1回国際カラテ選手権(インターナショナル・カラテ・チャンピオン・シップス)」で、ターキー木村をパートナーにデモンストレーションを行い、技だけでなく優れた理論とその存在感でアメリカ武道界での名声が高まる。この演武披露は“アメリカ空手の父”エド・パーカーの招聘によるもの。“アメリカ・テコンドーの父”ジューン・ リー(李俊九)と交流が始まったのもこの頃である。

★8月17日 リンダ・エメリーと結婚。

☆年末、中国人武術界が放った挑戦者ウォン・ジャックマンと対決。圧勝するものの、それまでの自身の“実戦法”に疑問を抱き、後のジークンドーに繋がる教訓となる(数秒でケリがつけるハズが、相手が逃げ回ったため、時間をロスした事実が「実戦の想定」に疑問を投げかけた。ブルース・リー師祖が勝負の基準としていたのは6秒以内であった)。

●1965年

2月1日、長男・ブランドン(李國豪)誕生。正式英語名はブランドン・ブルース・リー

2月8日、父・李海泉死去。

同月、「チャーリーチャンズ・ナンバーワン・サン」

のスクリーン・テストを受ける。(ブランドン誕生後、間もなく撮影され、ブルース・リーは鮮やかな技と最高の笑顔を見せる。10年後、日本で劇場公開された時のタイトルは『ブルース・リーのドラゴン拳法』)

一家で香港へ帰郷。

9月、シアトルへ戻る。同月、ウィリアム・ドジャー(グリーンウェイ・プロダクションズ)と『グリーン・ホーネット』出演の契約(同意書)を交わす。

デモンストレーションをおこなうブルース。挑戦者は引きも切らずやってきた。

教則本の撮影写真。ブルースは、常にストリートファイトを想定して 技術構築をおこなった。

成長したブランドンに試割りで遊ばせるブルース。

香港の不良少年は、苦難の末にアメリカで幸せな家庭を築き上げた。

しかし、彼はより高みをめざして挑戦を続ける。