ジークンドーの理念

1-1:ジークンドーということ

ジークンドー(Jeet Kune Do、JKD/截拳道)とは、国際的俳優であり、天才武道家であったブルース・リー師祖の創始した、“超実戦武術”であり“物事のフィロソフィー(哲学)”です。

それは“敵との闘う方法”であり、“人生との闘う方法”です。

それは、特定の型を持たず(強制したりされたりせず)、これで奥義を極めた、という限界のない思想です。生きている以上、JKDの修練、修業にゴールはありません。

“では、JKDを学ぶとは、どういうことなのか?” 当然出てくる疑問だと思います。

「JKD」と名づけられる前、ブルース・リー師祖が教えていた武術は、「振藩功夫/振藩國術(JUN FAN GUNG FU)」と呼ばれていました。それには各種基本の形、練習の型があり、「ブルース・リー拳法」と言っていい一つのスタイルです。しかし、「JKD」とは、そういった形式 やスタイルを学び、それを核にして昇華させた超実戦的 “無形武術” 。更に言うと、その昇華させて行く行程、道程そのものが「JKD」なのです。また、 “物事のフィロソフィー”と言いましたが、これは人生の様々な場面に応用できる哲学であるとも言えます。

日本振藩國術館では、JKDの思想が根底にあるという前提で、技術解説などにこの名称を使っています。

1-2:JKDのシンボルマーク

JKDのマークは、太極拳のシンボルとしても有名な陰陽を表わす図を 中心に、それが永久に回り続ける(進化し続ける)意味の矢印、そして周囲にはJKDのエッセンスとも言うべきブルース・リー師祖の言葉が記されています。 訓読すれば「無法を以って有法と為し、無限を以って有限と為す」となり、簡単に言えば“限界や形式(固定したスタイル)は無い、捕われない、あなたは無限です”という意味の言葉です。 陰陽の図は、この世界に存在する全ての事物が、必ず「対」になる何かと相互依存しながら、存在していることを表現しています。

天と地、昼と夜、男性と女性、など世の中にある存在は「対立」しているように見えても実際は、一方の存在がなくては成り立たない物 事をも示しています。たとえば、生き物の“天敵”とは文字通りの“敵”ですが、その存在がなければ、全ての生態系のバランスが崩れてしまいます。事物を広 い視野で見た「調和」を、この図が表しているのです。

格闘に於ける武技にもこの「陰陽」が、そして「陰」の中にも「陽」が、「陽」の中にも「陰」が存在する事が、その武技を完成へ近づける大切な要素となり、戦術に於いてもこの「調和」が大切な要素となるのです。

1-3:修練と発展の三段階

実は、JKDには先のシンボルマークとは別に、ブルース・リー師祖自身が描き残した修練と発展の三段階を表す図案があります。努力によって得られる知識・熟練は、三つの段階で構成されると彼は説きました。

(1)は、「白紙」の状態です。(Partiality, 部分性)

闘い方を知らず、やみくもに殴ったり、本能的にかわしたりする素のままの姿です。しかし、未熟ですが、ありのままの自分自身でもあります。

(2)は、「技」の段階です。(Fluidity, 流動性)

鍛えられ、磨かれた技術は洗練されますが、自由な動きが制限されたり、直感(自分自身)よりも覚えたテクニックを絶対的なものとしてしまう可能性もあります。

(3)は、「無」あるいは「自然のまま」の段階です。(Emptiness, 空)

厳しい練習を経て、長い年月のもと、本来の自分に戻った状態です。自身にとって有用なものだけが身体に残り、動きはごく自然に、流れる水の如く…。

もっとわかりやすく(あるいは俗っぽく)、身近な“読書”を例にあげて説明してみましょう。 私たちは、何かの知識や情報、また、 刺激や感動を求めて書物をひもときます。

(1)は、「白紙」の状態で、本を読み進む段階です。まだ知識がなく、小説ならば、その主題やストーリーの行方もわからず、ひたすら読み続けます。学術書 や研究書ならば、途中で疑問を感じたとしても、自分の知識不足と思うのが普通でしょう。

(2)は、読み終えた段階です。知識は整理され(もしくは情趣は満たされ)、とにかく疲労とともに一旦満足感が得られるはずです。

さて、ここで重要なのは(3)の段階へすんなり行けるかどうかです。学術書や研究書ならば、その論旨に納得がいったかどうか。もし、ほんの少し感じた疑 問を無視して「高名な学者が書いたものだから絶対正しい」と決めつけてしまったら、どうでしょうか。逆に、意外に面白かったと感じているものを「無名作家 のものだから大したことはない」などと人に伝えてしまったら、どうでしょう。どちらも、自分自身を見失うか、偽ってしまう結果になります。うわべを取り繕っても、自分の本心は自分が知っています。

読んだ一冊が全く文句ナシの内容だとしたら、次は別の本を手に取るか、時を経ていったん「無」に戻ってから再読し、改めて感動を味わうなどということに なるでしょう。

「ありのままの自分を表現すること」─ブルース・リー師祖は、その大切さも強調しています。 しかし、「それは非常に難しい」とも語っています。

人間は誰しも、欠点や弱点を持っています。簡単に直せるものもあれば、長い時間を要するものもあります。

JKDは、その手助けとなる可能性を秘めた、人生哲学(考え方)でもあります。 截拳道を直訳すると、相手の攻撃〈拳〉を遮断し〈截〉、勝利する方法〈道〉です。或いは、あらゆる形式〈拳〉に捕われず〈截〉、自分自身を表現する方法〈道〉。これを生き方としてとらえると、眼前の困難・障壁〈拳〉を乗り越え 〈截〉、心を豊かにする方法〈道〉となるのです。

つまり、JKDは武道修行だけでなく「生き方」を示す道標でもあるのです。

<The Three Stages in Jeet Kune Do>

(1)Sticking to the Nucleus(核への執着)

(2)Liberation from the Nucleus(核からの解放)

(3)Returning to Original Freedom(本来の自由への回帰)

JKDマン(ジークンドー修行者)は、格闘においても、人生においても、“自由”を目指し、自分自身を “自由に正直に表現” するように心掛け実践していきます。しかし、“自由”といっても、そこには段階があり、先ず、ブルース・リー師祖の遺された『核』となる沢山の武技、戦術、トレーニング方法、JKD哲学などを正しくしっかり学び、その理念を通してそれらを洞察吟味し、その教えに基づくモノを自分に当てはめて取捨選択して自分に反映し、自分自身のモノを創り発展していかなければ、それはJKDでは無く、単なる自分流の知識の寄せ集めにしか成り得ません。

その修行の道は、ブルース・リー師祖から正式指導員認可を受けた人から、または、その「正式指導員認可を受けた人から正式指導員認可を受けた人」から・・・というように、血統歴史が正しく繋がる正統ライン上での指導を受けながらの修行が大切です。誰からも正式な指導員認可を受けていない人が見よう見真似で格好、動きの上辺だけ真似、自ら勝手に指導員を名乗っている場合、そこには正統的歴史が存在しておらず、技法も上辺だけ真似たもので、これでは正しいJKDは実践でき得ませんし、大きな危険性も孕んでいます。(正統な組織には、必ず『ブルース・リー師祖』まで繋がる正統継承図、組織図が有ります)

JKDの修練は、先ず、『核への執着』、『核』に忠実に実践していく事が必須です。その理由は、誰からも正しい指導を受け続けていない者は、自分勝手な研究や練習に於いて、例えの表現として、例えば「1mm」間違った事を正しいモノだと迷信して進んでいくと、誰からも修正して貰えないため、それは最初小さな間違いであっても時間経過と共にその間違った事項はどんどん真実(ブルース・リー師祖のJKD)から離れていってしまうからです。JKDの第1ステージで『核』を正しく学ばねばならない段階で、これではJKDを実践できません。常に正しい指導者の下で正しい『核』を学び、常に間違いを指摘、修正して貰える環境(正式指導員の下)で修練を積んで行く事が肝要です。正しい環境で正しく『核』を身につけていく事はそんなに容易い事でもなく、折れない心と地道な努力-----WALK ONの精神-----が必要です。楽な方へ逃避する事なく、自分自身を厳しい環境に置く事で『核』はしっかり身に付いていきます。この『核』は土台となるモノですから、しっかりしていればしているほど、強固なJKDを実現できます。

故に、JKDの修練とは、正統な正しい指導者のもとで、正統な歴史を背負って、正しく『アート&フィロソフィー』両面を学び、その理解と実践に努める、これが必要不可欠なのです。私達はその正統的なJKDを稽古し、自らの成長を実現し、継承し、後進へ伝承していき、未来へと繋げて行くその正統歴史の一部となるのです。

『私が術を学ぶ前、私のパンチは単なるパンチで、キックは単なるキックだった。術を学んでからは、私のパンチはもはやパンチではなくなり、私のキックもキックではなくなった。しかし、術を理解した今、私のパンチはやはり単なるパンチで、私のキックは単なるキックに過ぎない』(by BRUCE LEE)